私は教員免許をとるため、教職課程を履修したり教育学研究科に所属していた。そのため、教育実習であったり授業見学であったり非常勤講師であったり、いろいろな学校にお邪魔する機会が多い大学生活であったと思う。
ある学校にて用事を終え、玄関へ続く廊下を歩いていた時の話。
ある日の夕方、廊下の大きな窓の前で1人のお爺ちゃんが中庭をジッと見ていた。腰を曲げて佇むお爺ちゃんは、ツナギを着ていた。恐らく用務員さんだ。
一応ここは学校なので、挨拶をしなくてはならない。集中しているところ申し訳ないが「こんにちは」と声かけると、お爺ちゃんが窓を指差す。見ろ、ということだろう。
お爺ちゃんの指し示すものがなんなのかわからず、尋ねてみると、もっとよく見ろと言われる。
あっ、ウサギがいる。ウサギだ。
学校の中庭でウサギが大人しく座っている。
お爺ちゃん用務員さんは「かわいいねえ」と言って目を細めている。柔らかな時間が流れていた。
……けど、ダメだろ!
どう考えても飼育小屋からウサギが脱走しているのだ。
「あの、これ捕まえなくていいんですか?誰か呼んで来ましょうか。手伝いますよ。」と私は提案した。妥当なところだと思う。
当然、「よし、捕まえに行こう」だとか「どうにかしておくから大丈夫だよ」なんて返答を期待していた。しかし、お爺ちゃんは予想を大きく裏切ってきた。
「ウサギさんお散歩かな??寒くなったらおうちに帰るんじゃないかなあ」
えっ。
絶対、散歩じゃねえ。ウサギはそんなに賢くない。他のウサギも出てくるって。バッカじゃないの捕まえなきゃ。
色んなまともそうな文句が頭をよぎったが、一言も口に出すことができなかった。予想外のお爺ちゃんのメルヘンチックな発言に、動揺してしまった。
動揺している私を尻目にお爺ちゃんは鼻歌交じりにその場を去ってしまった。お爺ちゃんの心は清らかなのだ。ウサギさんがお散歩なんて発想、なかなか出てこない。学校とはいえ、綺麗事もいいところすぎるが、お爺ちゃんは大まじめだった。とにかく圧倒されてしまった。
私はその場に取り残されたわけだが、「ウサギさんはおうちに帰れる」と信じてその場を立ち去った。