とりめも

東京のおいしいインドカレーの店を教えて

死者の写真を見ると具合悪くなるんだけどどうしようって話

大学一年生くらいからなのだけど、亡くなってる人(以下、死者と表記)の写真を見ると、突発的な吐き気を伴う不快感がこみあげてくる。

 

実際に吐いたことはない。吐こうと思えば吐けそうな「オエッ」って感覚がやってくる。苦手な生魚を口に入れた時のような「もうダメだ」って感覚。皆さんも嫌いな食べ物に当てはめてほしい。つまり、まあ、ほんの少しだけ体調に変化が訪れるのだ。

 

別に、エログロやホラーが怖いわけではない。纏足を施された人たちの変形した足や、宦官の写真は全然平気で見れる。

 

被写体が本物の死者であることが不快なのだ。(ゲームの死体とかはヘーキ)

 

最初に気づいたのは、恐らく小学生か中学生のとき。フセイン関係の問題が話題になってた時で、クサイ氏だっけ?そんな感じの名前の関係者の亡くなった顔(見るに堪えない状態ではない)がニュースで報道されていた。うろ覚えだから間違えまくってるんだろうけど、具合悪くなるから調べられないので許してほしい。

 

当時、クサイ氏の死よりも、「亡くなった人の顔が報道されてる!」ということに驚いた。自分の中で、「亡くなった状態は公にされない」という常識があったのだ。この常識、完全に間違っているわけではなく、大半の場合はその通りだろう。この人が世界的に影響力のある人であったし、そこまでグロテスクでもなかったから報道されたのだろう。

 

ただ、当時の私は理由はわからぬが感情的に許容できず、しばらくテレビを見るのが嫌だった。なぜ不快なのかはよくわからなかった。

 

次にはっきりと自覚したのは、大学一年の時の教職の授業だった。社会科の先生になるための講義。よくわからないけど、戦争中の映像資料を見せられていた。ノルマンディ上陸作戦だったかも。忘れた。

 

その中で、恐らく亡くなっている兵士が崖をゴロゴロと落ちていくシーンがあった。ほんの数秒で重要じゃない映像なのだけど、そこしか覚えていない。

 

人というよりは、物が落ちていくような感じがして、不快であった。生きていないんだろうなって感じ。

 

はっきりとは説明できないのだが、教材として死者が使われることが感情的に納得できない。他の人は、隠される「自分の死」なのに、歴史的に価値があるからと公開される状況がとても悲しい。

 

そして、戦争の悲惨さを強調する演出のためにゴロゴロ転がる兵士のシーンが使われたようにしか思えなくて、「人の死をなんだと思ってるんだ」ってやり場のない怒りがわいてくる。この兵士にも1人の人間としての人生があって、矜持があって、生き延びたかったかもしれないのに、不本意かもしれないのに、そんな陳腐な演出に使うなんて……。とか無限に考えてしまう。

 

この兵士は自分の敗北がこんな教材になることを望んでいたのだろうか。

 

ここら辺の話は、完全に私の中の感情的なものだ。そこに論理性はないし、誰に反論されても変わらないだろう。なので「感じ方を変えろ」という類の反論は受け付けられないし、聴く耳を持つ気はない。

 

つい何年か前だと、ウィキペディア太宰治の水死体の画像がUPされたのがしんどかった。私は生きている時の太宰治の写真だけを見たい。健康的でかっこいい太宰治だけ目にしたい。亡くなってしまった場面は当時の関係者や歴史学者のうちだけでしまっておいてほしいという願望があるのだ。

 

本当に身勝手な欲望なのは百も承知で綴っている。逆に死者を見ることに意義を感じる人もいるだろうし、史料として価値があるのだろう。ちなみに、ウィキペディア太宰治の項目は親切な方で、冒頭で「遺体の写真があります」という感じの警告をしてくれていた。こういう警告があると安心できるので嬉しいよなあ。共存ができそう。

 

あとは、魯迅の資料を漁っていた時に魯迅デスマスクや亡くなった直後の写真が出てきて、これもダメだった。やはり、自分にとっての歴史的英雄の命尽きるところは見たくないのだ。魯迅の亡くなった写真が何の役に立つのかも本当にわからない。わかりたくない。その本はもう見れなくなった。

 

私は文豪が好きなのだが、この性質のせいで見れなくなった画像が多い。太宰治ウィキペディア三島由紀夫魯迅……。どれも好きな人なので克服したいものだが、果てしなくしんどそうだ。かなり自分の中では明確な考えがあってダメなので、宗教のようなものなのだろうかね。とにかく、良くない。

 

ついさっき、ツイッターでゲンシシャという書店のアカウントを見つけてフォローしようとしたけどできなかった。トップのツイートが、犬の死体を抱くおじさん、亡くなった男の子を立たせて撮影した写真、亡くなった息子を支えるお父さん、笑顔の男の遺体の写真だった。

 

ツイートを読む前は「なんか金持ちそうな外国人の写真でいいなあ」と思ったのだが、全部遺体だと知ってから吐き気がやってきた。とてもセンスのある写真が多いアカウントなので、気になるのに悔しい。たぶん死者だと知らなければ好きな写真がたくさんあるのだろうに、もったいない。

 

個人的には、人の死は人が排泄してる姿のように守られる存在だと思うのだ。通常は人の排泄している姿は露わにならない(露わになる場合はちょっと騒ぎになる)。普通はトイレの個室や仕切りで守られている。死もそんな感じで、身内や友人、遺体発見者、警察、医療関係者、葬儀関係者くらいにしか見せられないことが多いだろう。例外はたくさんあるが、公開自殺のように死者本人の意志が働いている場合は仕方がない。

 

「死者であっても、死者である姿は他者の目から守られる配慮がされるものでは?」という考えから10年以上も抜け出せなくて苦しい。偉人だからOK、昔の人だからOKという感覚がわからないし、受け入れられない。死者たる姿に著作権はないから仕方ないのだけど……。

 

さて、文豪や歴史的資料が見れないのは日常生活では問題ないのだが、当面の悩みはお葬式だ。私は五歳の時に曽祖父が亡くなった時にしか経験がない。その時もショックでしばらく不眠が続いた気がする。

 

それ以降、人の死から目をそらし続けてきた。しかし、今年から社会人だし、後々いろんなお葬式に呼ばれることもあるだろう。会場で吐かないかな………。不謹慎な悩みが頭をもたげる。いや、ほんと、どうしたらいいんだ。