とりめも

東京のおいしいインドカレーの店を教えて

雑記

雑記

 

不健康な生活を続けてしまっている。平日は普通に仕事に行って夜に帰ってきてぼんやりして、動けないからネットを見てたらもう眠たい時間で、次の朝がまたすぐに来る。休日もだいたい家の中にいて布団の中で目を開けていると気がついたら夕方になっていて、また月曜がくる。みたいな生活をしてしまっている。

 

無 しかなくて、文化や哲学がどこにもない。食って寝て生きるだけで、いっぱいいっぱい。

 

リハビリを兼ねて何もしていないなりに何をしていたかを書く。推敲をするつもりがないから破滅した文になることでしょう。知らん。

 

まず、人に会うとエネルギーを膨大に消費する。

 

金土日のどこかは丸一日家でふさぎ込む日を作らないと気狂いになりそうだ。

 

故に私が人と会うことは少ない。

 

普段メールの返事が遅いくせに、「欠席」の連絡だけは他の人より迅速である自信がある。この間はせっかく誘ってもらった大きめの飲み会も「人が多すぎる」から休んでしまった。先週の日曜日も「自分のことを好きになろうとしてくれてるんだろうな」って稀有な良い人からの突然の夕飯のお誘いも「金曜と土曜に人と会ったからもうダメ」という理由で行きたくなくて、適当な言い訳を作って断ってしまった。もう会えないかもしれない。仕方あるまい。

(基本的には行けたら行くので、本当に理由があって休むこともわりとあるのは追記しておく。)

 

ただ、人と会うのは楽しい。

 

自分が合わない(相手を不快にして怒られそう)場所にはあまり行かないようにしているし、ノリノリで会う場合には大体好きな人としか会わないからだ。なので、誘ってもらうのも誘うのもどっちも嬉しいのだが、嬉しすぎて精神が摩耗される。家に帰ると何一つできなくなって、化粧も落とせないし、歯磨きもシャワーも全部できないでぶっ倒れてくうくうと寝てしまう。でも、そういう日の翌朝って悪い気はしない。

 

嬉しいのと疲れるのは別なのだ。この話、なかなかわかってもらえない。大学のころに「会うと疲れるってどういうこと。嫌いなの?」と詰問されたものだが、「好悪と元気かどうかはどう考えても意味合いが異なるし別軸で考えても良さそうなもんだ」と、字引を引っ張り出して説明したくなる。厭味ったらしいからやらないが。

 

「人と会うのは楽しいがしんどい」ことの折衷案として、ビデオ通話がある。これは大変良かった。ここでは詳しくは書かないが、最近「意識が低い読書会」という「催し」(というには大げさだが)を企画している。この間第4回目をやったのだが、「意識が低いから読書会をするために出かけたくない」という私の願望のもと、強引にビデオ通話環境で実施され続けている。

 

ビデオ通話だと、人がしゃべっている間に気になることがあったらネットでパパっと調べられるし、化粧や風呂をサボっていてもばれない。適当な部屋着でも良いし、途中で寝落ちする人もいる。飽きたら退出すればよい。家で自由度高く人と会う体験をできてしまうので、さほど疲れない。翌日も元気に活動ができる。これまでビデオ通話はあまり活用してこなかったのだが、かなり良い。怠惰に過ごしてきたここ一か月での一番の知見だ。「しんどくてお出かけはできないけど、ビデオ通話ならできます」みたいな言い訳が世の中に広まると、生きづらさが軽減される人が増えそうなものですね。

 

あと、読書会以外の新しいこととして、(春からたまにレッスンに行っていた)ドラムをちゃんと練習し始めた。前に会社のサークルみたいなのでライブがあって初心者なのに出させてもらったのだが、そのあともなんだかんだで、練習が続いている。できないことが多すぎるので、その分、新しくできるようになることも多いわけで、楽しいですね。悪筆すぎるから書道をはじめて、右払いのコツや隷書の逆筆を覚えた10年以上前の時のようにいちいち「へ~~~」となる。あと、スティックがあれば家でもできるのがうれしい。これは、楽しいからやる。

 

ここ数か月外出の機会が減り、ぼんやりする時間が増えたのだが、困る点もある。

 

本を読めない。絵を見れない。

 

どんどんバカになっていくようで怖い。別に本を読んだり芸術に触れれば頭がよくなるとは考えていないのだが、寛容になるとは思っている節がある。小説でも思想書でも絵画でも確実に自分の思想とは異なるものに触れるわけだから、ある程度考えを巡らせる機会となるわけで。その体験が多ければ多いほど、自分と違いすぎる人をも受け入れられる気がするし、それで困惑したときに折り合いをつけやすくなると思う。

 

もっとざっくりした話をすると、年を取ったときに「あの人も私と同じく〇〇に立つべきだ」なんてつまらん愚にまみれた発想になるのが怖いので、若いうちにいろんなものに触れておきたい。だが、体力がなくてそれができないのがしんどい。

 

せめて、せめて、20分でも本を読もう。と、会社の昼休みに青空文庫を開いて気になる作品を読むようにしているのだが、これは悪くない。太宰治の短編だと高校の時にだいたい読んでいるはずなのだが、当時は意味がくみ取れなかったり、もう忘れていたりしているので新鮮に読める。あと、太宰の大学時代の話「盗賊」なんて高校の時にはよくわからなかったけど、社会人になってから読むと面白みが増しますね。大学特有のぼんやりしたダメさや生ぬるい空気感の中にある繊細な感情みたいなのが好きだなア。

 

外に出るのがしんどいので絵を見に行けない。森村泰昌さんの展示に行きたいと数週間言い続けている。今日見に行く予定だったのだが、なんと日曜日が休館の施設だった。心が元気でも世間の都合がうまくいかないときがあるのだ。だから今日は家にいる。

 

仕事終わりに行ける美術館だと夜10時くらいまでやっている森美術館しかなさそうだし、休日の美術館は人が多くて2倍マシで疲れそう。あと、休日は動けない日が多い。どうしたらいいものかね。画集で見るのもいいのだが、どう考えても本物を見たい。

 

絵具のノリやキャンバスの大きさ、他の展示との関連、展示の順番、他の客の食いつき具合、そんな絵そのもの以外の要素から生まれる展覧会ならではの感動もあるわけで、それらは画集じゃ到底再現できない。データがある訳じゃないが何千円の展示に足を運ぶのは無駄ではない、と強く主張していきたい。少なくとも私にとってはそうなのだ。それでいい。4年前にアンディウォーホル展で初めて念願のキャンベルスープ缶を間近で見て力が抜けて涙が出たあの体験も虚偽ではない。家で画集を読むだけじゃダメなこともあるのだ。

 

そのうち、有休を取るかなんかして、丸一日美術館に行く日を作ってもよさそうだなという考えを巡らせている。風邪をなおすことや、地元でダラダラするために有休を使っていたが、こんな日があってもいいだろう。時期はいつがいいのだろう。クリスマスとかだとむしろすいてるかな。その前でもいい。

 

そうそう、今度、新しい書いたことないジャンルの記事を書く(かもしれない)話が出てきていて、少しなんか書きたくなったのでリハビリとして近況を書きなぐった。ここ数か月あり得ないくらいふさぎ込んでいて、文章を打ち込むのがままならなかったが、突然書きたくなったから書いた。悪文だけどそれでいい。では、風呂を沸かして残りの今日は何やるか考えることにします。