とりめも

東京のおいしいインドカレーの店を教えて

正確じゃない文章を正確に読めない

幼き日より、理解しやすい文章を書くように指導されてきた。

 

小学校の時に通っていた学習塾では、漫画『コボちゃん』を教材にして、1つの4コマ漫画で起こったことを200文字で要約する課題に取り組んでいた。

 

これ、案外難しい。

 

200文字は4コマを表すには短い。故に、極力シンプルな言い回しが求められる。さらに、小学生にありがちな「面白い」「楽しい」などといった自分の感情を持ち込むと瞬く間に200文字が埋まる。要約は「自分の感情を書くべきではない」ということが字数制限の面からも察することができる仕組みとなっている。

 

塾長が求めるレベルのどこまで身についていたかはわからぬが、作文の書き方に関して「全くわからん」から「なんとなくわかる」くらいまではステップアップしたと思う。とりあえず、「1文を短くする」「主語と述語を対応させる」「過剰な装飾をしない」「要約が何なのか知る」くらいの作法を知ることはできた。

 

早期の教育のおかげもあってか、後々高校や大学で経験する小論文やレポートなどで躓くことはなかった。(うまく書けているかは別だが)あの頃に学んだ事項をおさえておけば、あからさまに低い点数をつけられることもない。

 

学生を引退した現在でも、わかりやすくする意識は持つようにしている。思わず唸る美文や技巧を凝らした文でなくても良い。とりあえず、何を言いたいのかわかるようなものを下手なりに目指すのだ。 最低限、意味がわかるように。

 

ところで、唐突な話だが、私は自己肯定感が低い。

 

よって、自分の文章の正確さには自信がないし、他の人の文章は自信満々に見える。それ故、大学院生になるまで「他人の書いた文章はだいたい自分より優れている」と考えていた。

 

人の文章と自分の文章を比べる機会が大学院までそんなになかったのが理由である。また、小学校の塾以来、特に文章について学んでいないこともあり、自分の文章は小学生レベルだと思い込んでいた。

 

大学院生になって、他の人の文章を添削する機会に恵まれた。そこで初めて「結構な人が自分より神経質ではないのかもしれない」と考えが変わるようになった。

 

添削していると、1文は長いし、主語と述語も対応していない、なんてことがわりとある。「なんだか気持ちが悪い!」と感じてしまう。内容が頭に入らない。頭がぼーっとするので、即座に自分が読みやすいように文章を組み替える。あの頃の塾長が採点してくれた時のように。

 

そして、このような悪文をみんながみんな「気持ちが悪い」と感じるわけではないらしい。それに気がついたのもつい最近だ。

 

また、書き手や添削をすることを経験すると、次第に、読む際にも「正確に読もう」という意識が働くようになった。

 

それもあり、私はテキストから読み取れる情報は全て信用しきる態度をとっていた。書いてくれてるってことは、これを読めば分かるんでしょう、と。そして、その上で、情報の真偽を考えていく。

例えば、ちょっと怪しい論文を読む時には

 

情報自体は誤りであるかもしれないが、このテキストは「○○は△△と××の可能性がある」と書かれている。ということは、このテキストは△△と××を主張している。とりあえず、このテキストの中では、○○は△△と××とされているということだ。

 

では、本当に○○は△△と××とであることは正しいことなのだろうか。考えてみよう。

 

という思考経路をたどることになる(うまく書けなくてくどい言い回しだが)。

 

しかし、書き手の思惑は案外そうでもないらしい。

 

書き手としては、△△と××ではなく、何故か文章の後の部分に出てきた◽︎◽︎を主張していたりすることがあるのだ。とりあえず思いついた順に書いていて、△△や××がさほど重要ではないことがある。そうなると、「○○は△△と××」なのかを考える行為自体が無駄である可能性もある。

正確に読もうとすると、認識を誤るケースがあるのだ。

 

これが論文や学会であれば「ここの段落で△△と××を主張しているのに、どうして◽︎◽︎が出てくるんですか」などと質問して、「書き手が悪い」と責め立てることができる。

 

しかし、現実のやりとりはそうはいかない。それがしんどい。

 

実際の文例を出すのも良くない気がするが、出さないと話しにくいので、大昔の例を出す。この話は、以前、ツイッターでも話題にしたことがある。

 

中学の時のことだ。

 

私立の高校入試前日に私たち受験生は同じ部屋に集められ、当日のスケジュールや心構えなどを伝えられていた。前日ということもあり、もう学力の方はどうにもならないので、先生たちは親切に励ましてくれる姿勢であった。

その中で

「明日は8:30に着いても大丈夫ですよ。先生たちは受験会場にいますよ」

という言葉があった。

 

前提条件として、私立高校側が出している集合時刻は「8:50までに教室へ」というものであった。

 

それを踏まえて「入試が心配な生徒はちょっと早いけど8:30に来ても先生たちがいるから大丈夫ですよ。」という意味に解釈した。

何が大丈夫なのかはよくわからないが、神経質な生徒は入試前に先生の顔を見たいなどの事情があるのだろう。

 

私は、滑り止めの学校としてその私立を受けるつもりだった。故に、入試に心配がない。ほぼ確実に受かる高校だったので、先生の顔を見る用事もない。

 

なので、8:40くらいに高校に着くようにした。他の生徒は先生と話したいだろうし、入試に間に合うなら10分前くらいがよいのだろう。また、「早く来ても大丈夫」の「大丈夫」という言葉より、「できることならそんなに早く来ないのが望ましい」という意味なのではないか、と考えた。あまり早く集まると高校側にも迷惑なのかもしれない。

 

翌日、入試会場に着くと、自分の中学の先生が受験校に乗り込んで各教室を巡っていた。大変な騒ぎらしい。

 

理由は、私が8:30の時点でいなかったから。他の生徒にも「どうしてそんなに遅いの!」と注意された。おや?私は遅刻していないはずだが……。そして、クラスにやってきた担当教諭に「遅刻だぞ」と入試直前に軽く注意された。

 

後々、納得できず、担当教諭に話を聞きに行った。

 

「8:30でも大丈夫って言ってたのであまり早く来るなって意味だと解釈したんですが」と。「そんな意図はない」とだけ返事をされた。

 

「入試だから早く行くのが当たり前」という意見はわかる。しかし、それなら「心配な子は8:30に来ても大丈夫」なんて紛らわしい言い方をしないでほしいのだ。「8:30までに来てください」それで良いではないか。上記の言い方で「8:30がデッドライン」と察するのは難解過ぎる。結局、正確に読もうとした自分だけが遅刻していた。解せぬ。

 

日常でこういうことが多すぎる。

 

納得がいかなくとも、日常において怒られたり損をするのは自分なのだ。そして、迷惑をかけるのも自分なのだ。正確に読み取ろうと努力した自分なのだ。

 

こういうすれ違いが日常でありすぎてしんどい。

 

自分が人に何か要件を伝える時は、極力「誰がどこでいつ何をするか。」の要素を忘れないようにしている。最低限、主語・述語・目的語は入れるように努力する。それじゃないと、不幸な認識のすれ違いを生むからだ。

 

ただ、書き漏らしがあることもある。その場合、こちらが悪文だと認めて、指摘いただいたことにお礼や謝罪をする。可能ならば、次回以降も遠慮なく指摘してほしいという思いがあるので。そして、早い段階で質問をされるとありがたい。

 

しかし、自分が他人から伝えられる時は必ずしもそうではない。主語がよくわからなかったり、1つの文に主語が複数人でてきて誰が何をするのかよくわからなかったりする。そうなると、追加で質問をしなければならないのだが、どうも揚げ足取りみたいで心苦しい。

 

また、先ほどの入試の例のように書いてある通りに読み取ると間違えることもある。それは空気が読めていないからだ。文が読めても空気が読めない状態、本当にしんどい。読み取れても裏切られるようで、何を信じたら良いのかわからない。

 

私は人の言っていることを、知りたい。伝えるばかりじゃなくて、理解したい。でも、正確に読もうとすると書き手の意図とは異なることがあるし、毎度毎度察するために頭を使うのならむしろテキストじゃない方が楽だ。どうして、一見意味が通ってるテキストなのにパズルを解くような思考を巡らせなくてはならないんだ。よくわからない。

 

学生の時は「悪文を書く方が悪い」として、切り捨てることができたが、現実だとそうはいかない。寄り添わなくてはならない。わかりにくい文章に向き合う時、一度咀嚼して可能性を洗い出して文章を新たに解釈しなければならない。何故……。

 

親しい人とのテキストのやりとりで「主語と述語をしっかり書いてくれ」と申し出たが「時間がない」と切り捨てられたことがある。「書けない」のではなく「時間がない」のは本当だろうか。それすらもわからない。自分はなるべく気を遣って整理して記述するが、この行為は人に利益を与えてばかりな気がする。

 

理解できない自分が悪いのか、伝える努力をしない人たちが悪いのか。どうも、前者らしい。理解したいし、テキストからは読み取れそう。しかし、理解できていない現象が頻発する。本当に虚しい。

 

悪い文章を読んで「気持ち悪い」と思う感覚は誰しもあるわけではないらしい。私の場合、後天的に身についたものだと思う。自分が文を書く時には役に立っている。

 

しかし、この感覚がなければ楽だったのかもしれない。日常で余計なことに気がついて空回りするパターンが多すぎる。テキストで手渡されることによって、逆にスッと読めない。文章の添削を頼まれた時以外で人の役に立たないし、しんどい。

 

これ、「空気が読めないからアスペですね」だとかで片付けられる話なのだろうか。なんか違う気がする。

 

仮説だが、この世の編集者はかなり生きにくいのではないだろうか。自分は編集者の方のように文章に触れているわけではないからわからないが、編集者じゃなくても十分に苦しい。

 

悪文の読解に苦しんでる割に、悪文を書き連ねてしまい、すみません。雑文っぽくしたくて小見出しはつかなかったけど、あってもよかったかも。気の向いた時に修正していきます。

ぜひ、こういう経験がある方がいたら教えてほしいです。