とりめも

東京のおいしいインドカレーの店を教えて

平成最後の忘年会の年だから「忘平成会」をやった。

「平成最後の○○」今年飽きるほど聞いたフレーズではないだろうか。

平成最後の花火、平成最後の夏、平成最後のハロウィン……

 

とりあえず、「平成最後の」とつけておけば何でもかんでも許されそうな雰囲気があって良い。捻くれているので流行り言葉はあまり好きではないが、このフレーズは期間限定感があって割と好きだ。

 

容易に想像できるのが良い。

 

数週間後には平成最後のクリスマスがやってくるし、平成最後のお正月や平成最後のバレンタイン、平成最後のホワイトデーも準備万端にしてその後ろに控えている。

 

しかし、嫌いなフレーズではないのだが、こうも続くとなるとなんだか湿っぽさがある。今年一年、名残惜しいことばかりになってしまう。それは良くない。我々は時代とともに前へ進歩すべきなのだ。メソメソせず、飛躍すべきだ。それに、いつまでも名残惜しんでいると、新たな元号に失礼である。

 

「平成最後」「平成最後」と平成にしがみつき過ぎるのは、何十年も続いたアニメの声優が引退するときに新規加入する声優に何故かアンチが湧くような理不尽さがある。フレーズ自体は面白いが、これは好ましくない。

 

そんな不寛容は、新たな年号が可哀想だ。21世紀を生きる進歩的な我々としては、両手を広げ気持ちよく迎え入れてあげたいものである。

 

そんなわけで、新しい元号を万全の状態で迎え入れるため、思い切り平成を味わい尽くす会を計画した。転校生を送り出す気持ちで、平成をチヤホヤしようではないか。

 

それが、タイトルにある「忘平成会である。

*1

 

やったこと

前置きはそこそこに、こんなことをあったよって出来事をいくつか記載していく。

イベント概要

平成を振り返ることをテーマにした忘年会をやりたい

場所

蒲田のスナックを借りた。*2

 

運営

もひもひさん id:mohi_wakame  

少年Bさん id:raira21 

千鳥あゆむ(私) 

 

やったことの紹介

ここからは、当日のやったことをざっくり紹介。

平成を振り返るメニュー

キッチンが使えるスペースということで、料理が上手い方と、カクテルを作れる方に協力いただいた。平成にあやかったメニューを提供。

フード

など……

カクテル

など……

 

私たちの考えた無茶なメニューを作ってくれて感謝……。

自分が出したヤマンバギャルと白ギャルの案が採用されていて感動した。ギャルは可愛い。そして、平成といえばギャル。

 

平成を振り返るコンテンツ紹介

メインのイベント。

平成元年から30年まで各人の思い出のコンテンツを紹介する。1人1分くらい。

自分は平成8年に発売されたたまごっちを待っていった。*7

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参加者のミニ四駆と一緒に飾ってもらった。どちらも懐かしい。

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たくさんの方が発表してくれた。ここには書ききれないのだが、ツイッターで#忘平成会 で検索いただくと、だいたい出てくる。*8

 

また、平成女子小学生の象徴であるプロフィール帳を持ってきている参加者が複数人いた。ワッと盛り上がり、会場の大人たちも懐かしい気持ちとともにプロフィールを書いていたのだが、住所の欄で筆が止まる人が多いようであった。大人になった証拠ですね。

 

あと、執筆している今気づいたんだけど、6分前にもひもひさんが詳細なレポートを更新していた。こっちの方が写真がたくさんあるので見て。*9

 http://mohi.hateblo.jp/entry/heisei_1

その他

その他にも色々あった

小渕恵三のコスプレ

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平成のキャラクターの変化を紹介するプレゼン

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平成を振り返るバンド(平成のシンボルに送る自作曲やウリナリのボサノバ)

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平成男子の分析本や平成に書いた黒歴史を出版する懐かしの同人即売会

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終わりに

若いうちに元号が変わるってもうないだろうから、こういう会を催せてよかったなーと思う。手軽に盛り上がれるので本当にオススメ。

 

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(⬆︎スナックとか普段行かない場所でガヤガヤするのも良いものですね。)

 

あと、忘年会でUSAやバブリーなダンスを踊るくらいなら、忘平成会を企画すると良いと本気で主張する。みんなが参加できるし、シラケないし、ダンスの練習はいらない。運営も楽しい。平成最後の年の忘年会だし、好きでもない流行り物の出し物で憂鬱になるのは避けたいものである。*10

 

まだしばらく平成は続くので、忘平成会のチャンスは年末だけではないはずですよ。

 

あと、あと、平成を振り返ると、自分が大人になってたんだな、って感じられますね。

 

みんな頑張って平成を生きた。

 

では、よい平成を。

 

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*11

 

*1:実際は主催者3人でコリドー街を散策してる時に適当に筆者が発した提案が思いのほかウケて採用された。長々と記載したようなお堅い思想は虚偽である。

*2:スナックである理由は別にない。カッコいいから、ワクワクするからみたいな感じだったと思う。「スペースマーケット」っていうサービスを使った。運営のもひもひさんが場所をおさえてくれた。

*3:買い出しの際に突発的に考えて食材を揃えたが、他の料理が充実してたこともあり、提供されなかった。幻のメニュー。

*4:スーパー○○って名称のドリンクとオールフリーを合わせることで、スーパーフリーになる

*5:主催がハマってるニコニコ動画のシリーズ。是非見て

*6:黒色のお酒の上に、白の生クリームの層が乗る。どうやってやるんだろ。

*7:アキバので新品3000円。気になる人は個別に連絡くれたら店を教えます。

*8:あと、筆者は愚かなので写真を撮り忘れた

*9:残業してたら先に詳細なレポートがあがっていた。ラッキー。

*10:とはいえ、立場上避けられない場合もあるのかもしれない

*11:このイベントのために買ったたまごっち。多忙につき4日で死なせてしまった。大人になってしまったと切なくなった。

正確じゃない文章を正確に読めない

幼き日より、理解しやすい文章を書くように指導されてきた。

 

小学校の時に通っていた学習塾では、漫画『コボちゃん』を教材にして、1つの4コマ漫画で起こったことを200文字で要約する課題に取り組んでいた。

 

これ、案外難しい。

 

200文字は4コマを表すには短い。故に、極力シンプルな言い回しが求められる。さらに、小学生にありがちな「面白い」「楽しい」などといった自分の感情を持ち込むと瞬く間に200文字が埋まる。要約は「自分の感情を書くべきではない」ということが字数制限の面からも察することができる仕組みとなっている。

 

塾長が求めるレベルのどこまで身についていたかはわからぬが、作文の書き方に関して「全くわからん」から「なんとなくわかる」くらいまではステップアップしたと思う。とりあえず、「1文を短くする」「主語と述語を対応させる」「過剰な装飾をしない」「要約が何なのか知る」くらいの作法を知ることはできた。

 

早期の教育のおかげもあってか、後々高校や大学で経験する小論文やレポートなどで躓くことはなかった。(うまく書けているかは別だが)あの頃に学んだ事項をおさえておけば、あからさまに低い点数をつけられることもない。

 

学生を引退した現在でも、わかりやすくする意識は持つようにしている。思わず唸る美文や技巧を凝らした文でなくても良い。とりあえず、何を言いたいのかわかるようなものを下手なりに目指すのだ。 最低限、意味がわかるように。

 

ところで、唐突な話だが、私は自己肯定感が低い。

 

よって、自分の文章の正確さには自信がないし、他の人の文章は自信満々に見える。それ故、大学院生になるまで「他人の書いた文章はだいたい自分より優れている」と考えていた。

 

人の文章と自分の文章を比べる機会が大学院までそんなになかったのが理由である。また、小学校の塾以来、特に文章について学んでいないこともあり、自分の文章は小学生レベルだと思い込んでいた。

 

大学院生になって、他の人の文章を添削する機会に恵まれた。そこで初めて「結構な人が自分より神経質ではないのかもしれない」と考えが変わるようになった。

 

添削していると、1文は長いし、主語と述語も対応していない、なんてことがわりとある。「なんだか気持ちが悪い!」と感じてしまう。内容が頭に入らない。頭がぼーっとするので、即座に自分が読みやすいように文章を組み替える。あの頃の塾長が採点してくれた時のように。

 

そして、このような悪文をみんながみんな「気持ちが悪い」と感じるわけではないらしい。それに気がついたのもつい最近だ。

 

また、書き手や添削をすることを経験すると、次第に、読む際にも「正確に読もう」という意識が働くようになった。

 

それもあり、私はテキストから読み取れる情報は全て信用しきる態度をとっていた。書いてくれてるってことは、これを読めば分かるんでしょう、と。そして、その上で、情報の真偽を考えていく。

例えば、ちょっと怪しい論文を読む時には

 

情報自体は誤りであるかもしれないが、このテキストは「○○は△△と××の可能性がある」と書かれている。ということは、このテキストは△△と××を主張している。とりあえず、このテキストの中では、○○は△△と××とされているということだ。

 

では、本当に○○は△△と××とであることは正しいことなのだろうか。考えてみよう。

 

という思考経路をたどることになる(うまく書けなくてくどい言い回しだが)。

 

しかし、書き手の思惑は案外そうでもないらしい。

 

書き手としては、△△と××ではなく、何故か文章の後の部分に出てきた◽︎◽︎を主張していたりすることがあるのだ。とりあえず思いついた順に書いていて、△△や××がさほど重要ではないことがある。そうなると、「○○は△△と××」なのかを考える行為自体が無駄である可能性もある。

正確に読もうとすると、認識を誤るケースがあるのだ。

 

これが論文や学会であれば「ここの段落で△△と××を主張しているのに、どうして◽︎◽︎が出てくるんですか」などと質問して、「書き手が悪い」と責め立てることができる。

 

しかし、現実のやりとりはそうはいかない。それがしんどい。

 

実際の文例を出すのも良くない気がするが、出さないと話しにくいので、大昔の例を出す。この話は、以前、ツイッターでも話題にしたことがある。

 

中学の時のことだ。

 

私立の高校入試前日に私たち受験生は同じ部屋に集められ、当日のスケジュールや心構えなどを伝えられていた。前日ということもあり、もう学力の方はどうにもならないので、先生たちは親切に励ましてくれる姿勢であった。

その中で

「明日は8:30に着いても大丈夫ですよ。先生たちは受験会場にいますよ」

という言葉があった。

 

前提条件として、私立高校側が出している集合時刻は「8:50までに教室へ」というものであった。

 

それを踏まえて「入試が心配な生徒はちょっと早いけど8:30に来ても先生たちがいるから大丈夫ですよ。」という意味に解釈した。

何が大丈夫なのかはよくわからないが、神経質な生徒は入試前に先生の顔を見たいなどの事情があるのだろう。

 

私は、滑り止めの学校としてその私立を受けるつもりだった。故に、入試に心配がない。ほぼ確実に受かる高校だったので、先生の顔を見る用事もない。

 

なので、8:40くらいに高校に着くようにした。他の生徒は先生と話したいだろうし、入試に間に合うなら10分前くらいがよいのだろう。また、「早く来ても大丈夫」の「大丈夫」という言葉より、「できることならそんなに早く来ないのが望ましい」という意味なのではないか、と考えた。あまり早く集まると高校側にも迷惑なのかもしれない。

 

翌日、入試会場に着くと、自分の中学の先生が受験校に乗り込んで各教室を巡っていた。大変な騒ぎらしい。

 

理由は、私が8:30の時点でいなかったから。他の生徒にも「どうしてそんなに遅いの!」と注意された。おや?私は遅刻していないはずだが……。そして、クラスにやってきた担当教諭に「遅刻だぞ」と入試直前に軽く注意された。

 

後々、納得できず、担当教諭に話を聞きに行った。

 

「8:30でも大丈夫って言ってたのであまり早く来るなって意味だと解釈したんですが」と。「そんな意図はない」とだけ返事をされた。

 

「入試だから早く行くのが当たり前」という意見はわかる。しかし、それなら「心配な子は8:30に来ても大丈夫」なんて紛らわしい言い方をしないでほしいのだ。「8:30までに来てください」それで良いではないか。上記の言い方で「8:30がデッドライン」と察するのは難解過ぎる。結局、正確に読もうとした自分だけが遅刻していた。解せぬ。

 

日常でこういうことが多すぎる。

 

納得がいかなくとも、日常において怒られたり損をするのは自分なのだ。そして、迷惑をかけるのも自分なのだ。正確に読み取ろうと努力した自分なのだ。

 

こういうすれ違いが日常でありすぎてしんどい。

 

自分が人に何か要件を伝える時は、極力「誰がどこでいつ何をするか。」の要素を忘れないようにしている。最低限、主語・述語・目的語は入れるように努力する。それじゃないと、不幸な認識のすれ違いを生むからだ。

 

ただ、書き漏らしがあることもある。その場合、こちらが悪文だと認めて、指摘いただいたことにお礼や謝罪をする。可能ならば、次回以降も遠慮なく指摘してほしいという思いがあるので。そして、早い段階で質問をされるとありがたい。

 

しかし、自分が他人から伝えられる時は必ずしもそうではない。主語がよくわからなかったり、1つの文に主語が複数人でてきて誰が何をするのかよくわからなかったりする。そうなると、追加で質問をしなければならないのだが、どうも揚げ足取りみたいで心苦しい。

 

また、先ほどの入試の例のように書いてある通りに読み取ると間違えることもある。それは空気が読めていないからだ。文が読めても空気が読めない状態、本当にしんどい。読み取れても裏切られるようで、何を信じたら良いのかわからない。

 

私は人の言っていることを、知りたい。伝えるばかりじゃなくて、理解したい。でも、正確に読もうとすると書き手の意図とは異なることがあるし、毎度毎度察するために頭を使うのならむしろテキストじゃない方が楽だ。どうして、一見意味が通ってるテキストなのにパズルを解くような思考を巡らせなくてはならないんだ。よくわからない。

 

学生の時は「悪文を書く方が悪い」として、切り捨てることができたが、現実だとそうはいかない。寄り添わなくてはならない。わかりにくい文章に向き合う時、一度咀嚼して可能性を洗い出して文章を新たに解釈しなければならない。何故……。

 

親しい人とのテキストのやりとりで「主語と述語をしっかり書いてくれ」と申し出たが「時間がない」と切り捨てられたことがある。「書けない」のではなく「時間がない」のは本当だろうか。それすらもわからない。自分はなるべく気を遣って整理して記述するが、この行為は人に利益を与えてばかりな気がする。

 

理解できない自分が悪いのか、伝える努力をしない人たちが悪いのか。どうも、前者らしい。理解したいし、テキストからは読み取れそう。しかし、理解できていない現象が頻発する。本当に虚しい。

 

悪い文章を読んで「気持ち悪い」と思う感覚は誰しもあるわけではないらしい。私の場合、後天的に身についたものだと思う。自分が文を書く時には役に立っている。

 

しかし、この感覚がなければ楽だったのかもしれない。日常で余計なことに気がついて空回りするパターンが多すぎる。テキストで手渡されることによって、逆にスッと読めない。文章の添削を頼まれた時以外で人の役に立たないし、しんどい。

 

これ、「空気が読めないからアスペですね」だとかで片付けられる話なのだろうか。なんか違う気がする。

 

仮説だが、この世の編集者はかなり生きにくいのではないだろうか。自分は編集者の方のように文章に触れているわけではないからわからないが、編集者じゃなくても十分に苦しい。

 

悪文の読解に苦しんでる割に、悪文を書き連ねてしまい、すみません。雑文っぽくしたくて小見出しはつかなかったけど、あってもよかったかも。気の向いた時に修正していきます。

ぜひ、こういう経験がある方がいたら教えてほしいです。

 

 

 

「意識低い読書会」をやって3ヶ月目になった。

今週のお題「読書の秋」 らしいですね。タイミングが良い。(追記)

 

意識(の)低い読書会という読書会を月に1,2回くらいやり始めて、3ヶ月目になる。

 

これが案外良くて、この間第5回目が開かれたらしい(私は参加していない)。

 

5回も続いたことが嬉しいし、身内以外にも広まって欲しいので、色々書いちゃおう。

 

はじまり

この会がなんなのか書く前に、はじまったきっかけを書くなって感じだが、書く。

はじまりは、唐突だった。

 

会社終わってご飯食べてる最中に、「気楽に読書会したい〜」という旨を呟いたら何人かから反応があったので、「じゃあ、やりましょう」となった。うまいことトントン拍子にすすんだ。

 

つまり、なんも考えずに見切り発車で実施だけ宣言して、実際のやり方は後から詰めた感じだね。

 

社会人になってから読書に孤独を感じる

https://twitter.com/chidoriayumu/status/1022458797418106880?s=21

 

当時のツイートを見ると、そもそも読書会のために一冊読むのがしんどい という意識があったようだ。

 

さて、最近の自分の環境の変化でつきまとう読書の問題として、以下の2点がある。

  1. 読書は好きだが、体力がない。
  2. 作品の話ができる人が周りにいない。悲しい。

 

体力がない問題

1に関しては、引きこもり気質なので平日は8時間仕事して、ご飯食べたり、帰宅したり、シャワーを浴びるともう眠いのだ。

 

休日は休日で、平日に買えなかったものの買い物とか、記事執筆、そもそも寝てる などの理由で体力と時間がゴリゴリ削られる。

 

よく「○○する時間があるなら△△しなさい」っていうお叱りがあるが、あれはナンセンスだと思う。各行動に払う体力や精神力のコストを全く考慮していない。

 

元々、HPの上限が低いタイプの人間にとって、帰宅後に頭を使うのはしんどい。読みたい本はどんどん増えていくのに、本を開くと思考がログアウトする現象が発生する。頭が動かない。字が流れていくだけで、話がまるで頭に入らない。しんどい。

 

そのため、最近ではまだ余力のある会社の昼休みにとりあえず短編や詩を読むことにしてる。

 

作品の話ができない問題

2に関しては、大学院の時からそう。

 

文学部⇨教育学の院に進学すると、ゆるく文学の話ができる人が激減する。現在は、インターネット事業の会社にいるので尚のことだ。

 

文学の話と書くと排他的で高尚な印象を与えかねないが、そうではない。

A「太宰治の『朝』が情けなくて良い。読んでみて」

B「青空文庫にある?なら、暇な時読むね。そういえば、前に太宰の『畜犬談』読んだよ」

A「お、読んだことあるけど、忘れた〜。どんなんだっけ。」

くらいの会話で良い。

 

私が嬉しいのは、相手が実際に太宰の『朝』を読むかどうかではない。読んでくれると死ぬほど嬉しいが、読まなくても良い。

 

それに、Bが勧めてくれるのは、太宰に限る必要はない。オススメのラノベでも児童小説でもBが好きなものならなんでも良い。

 

好きな作品の話を聞いてくれる人がいて、相手の好きな作品を知ることができる状態が嬉しいのだ。

「昨日のアニメ見た?」

「○○ちゃんが可愛い」

のような雑なノリで良い。同じ文学部や本好きでも好きな作品は違うのだから雑になるのは当たり前だ。

 

そして、現在では、「そんな雑に気軽に作品の話ができるあの時の環境はとても貴重だったなあ」と痛感することが多い。

あの頃のような会話をしたい。

 

読書会はガチ感ある

作品の魅力を共有したいのなら、そこらへんでやってる社会人向けの読書会イベントに参加するという手がある。

 

また、自分が所属してた大学院のゼミでもたまに読書会をやっている。それに参加すれば良さそうだ。

 

ただ、気軽に本を読みたい立場としては合わない気がする。

 

例えばきちんとした読書会ならば以下のような運営になるだろう。(すべてを満たすとは言っていない)

  1. 一冊本を読んでくる 
  2. 本が指定されている
  3. 要約のレジメを作ってくる
  4. 解釈にまつわる議論が発生する

 

これはこれで学びが多くて良いのだが、前述したように、

①読みたいが体力がない

②雑に好きな作品を共有したい  

という感じの今の私にとってはハードルが高すぎる。学生の時じゃないと無理だ。

 

だから意識低い読書会をやる

そんなわけで、ゆるく読書会をやることにした。なるべく意識低めで。参加者もわたしも重荷に感じない程度が良い。

 

運営

どんな感じで読書会を実施しているかを記載する。

とはいえ、現状の話だ。カッチリと決める必要なく、集団の意識の低さに合わせて柔軟に変更するのが良いと考えている。

①形式

なるべく気軽さを重視することにした。そして、基本的には各々が好きな作品を紹介する形にした。つまり、みんなで同じ一冊を読んでくる必要はない。

 

また、競わせると心がざわめきそうなので、そういう要素は一切排除した。

 

そのため、基本的にはブックトークの体裁を取ることにした。ビブリオバトルのように「読ませたいと思わせた人が勝ち」という競争の要素は入れない。

 

理由としては以下になる。

①好きを共有するのが目的なので競争する必要がない

②プレゼンが下手でも好きを発信してほしい

 

敢えて追記するが、ビブリオバトルが悪いわけじゃないし、批判しているわけではない。意識低めの読書会には不適であっただけである。

 

②事前準備

特にない。

準備したい人はプレゼンテーションのスライドや原稿を用意しても良い。各々がやりやすいように。

 

③場所

ビデオチャット

意識が低い我々は、外出に困難や著しい体力の消耗を伴う場合が多い。読書会のために、シャワー浴びて着替えて化粧して電車やバスに乗って時間通りにカフェに集まるのは重労働だ。

 

故に家が最高なのではないかと判断した。

 

④実施の手順
  1. 月初めくらいに参加しそうな人に、行けそうな日程を調整さんに書いてもらう(書かなくても良い
  2. 書いてくれた人の中で、都合の良い日にちの候補を出す
  3. 実施当日になったら誰かがビデオチャットの部屋を立てる。Googleハングアウトだと、25人くらいまで無料で話せるのでおススメ。
  4. だいたい、4〜6人くらい参加してくれる
  5. 人が話を聴ける集中力は短いので、1人10分-15分くらい自由に喋ってもらう。話す内容は、作品の魅力、軽く議論したいこと、ここが好き、ここが面白い、など自由。
  6. 人が喋ってる間、聴いてる人は話を邪魔しない程度に相槌を打ったり、チャットで盛り上がったり、作品を検索したり、自由。
  7. 全員話終わったら、自由に雑談するか自由解散

 

⑤注意事項

ガバガバな読書会だが、一応、注意してることもある。注意事項もガバガバなのだが……。

  1. 作品は読めればネット記事でも漫画でもなんでも良い
  2. 事前に作品を共有するのを推奨するが、参加者は読んでこなくても良い
  3. 録音や録画は原則しない(完全にクローズドな場所だからこそ面白い話があるので)
  4. ドタキャン、ドタ参はOK
  5. 途中参加や途中退室もOK

 

理想

  1. 理想は「カラオケ行こうぜ」「飲みに行こうぜ」のノリで「読書会やろうぜ」が成立すること。
  2. 新たな読書会の形としてビデオチャットがもう少しメジャーになってほしい。私は穏やかなカフェでゆるい雰囲気でとか関係なく、外出がしんどい。
  3. みんなが飽きるまで緩やかに続いて、飽きたらお休みして、思い出したらまた始まって……みたいな雑な運用

 

問題点

  1. Googleハングアウトでやっているが、人が増えすぎると画面がカクツク
  2. 今は内輪でやっている(参加者の友人やフォロワーが紹介される形)が、突然全く知らない人から参加希望が来たらどうしよう。
  3. ↑私たちが公式イベントとして牛耳ってるわけじゃないので、各々で自由に読書会をやってほしい。
  4. チャンネルを立てれる点、通知を自由に設定できる点、ログが見やすい点から、slackを連絡ツールとして利用しているが、ハードルを高く感じる人もいるので、申し訳ない

 

意識低いから良かったこと

  • 普通の読書会だとあり得ないようなプレゼンが聴ける。
  • 読書会のために準備するものはないので気楽
  • ↑用意したい人は用意しても良い自由さ
  • 複雑な運営でもないので、発起人が毎回参加する必要がない(他の人が発起人の私の都合に合わせる必要もない

 

面白かったプレゼン

個人的に印象に残ってるプレゼンをざっくりと……。

  • 森鴎外舞姫」の登場人物を一人一人殴りたい というプレゼン
  • 漫画『酒のほそ道』の主人公がとにかくやかましい話
  • 泉鏡花「竜潭譚」の紹介で、雰囲気が似てるとお笑い芸人のハライチのラジオを紹介してくれるプレゼン
  • テジュ・コール『オープン・シティ』を引きこもりがちな人に向けてすすめてくれるプレゼン

おわりに

ビデオチャットで読書会をやるのは案外悪くないので、ぜひやってみてください。

あと、「うちの読書会はこんなんだよ」みたいな話もあれば知りたいです。

雑記

雑記

 

不健康な生活を続けてしまっている。平日は普通に仕事に行って夜に帰ってきてぼんやりして、動けないからネットを見てたらもう眠たい時間で、次の朝がまたすぐに来る。休日もだいたい家の中にいて布団の中で目を開けていると気がついたら夕方になっていて、また月曜がくる。みたいな生活をしてしまっている。

 

無 しかなくて、文化や哲学がどこにもない。食って寝て生きるだけで、いっぱいいっぱい。

 

リハビリを兼ねて何もしていないなりに何をしていたかを書く。推敲をするつもりがないから破滅した文になることでしょう。知らん。

 

まず、人に会うとエネルギーを膨大に消費する。

 

金土日のどこかは丸一日家でふさぎ込む日を作らないと気狂いになりそうだ。

 

故に私が人と会うことは少ない。

 

普段メールの返事が遅いくせに、「欠席」の連絡だけは他の人より迅速である自信がある。この間はせっかく誘ってもらった大きめの飲み会も「人が多すぎる」から休んでしまった。先週の日曜日も「自分のことを好きになろうとしてくれてるんだろうな」って稀有な良い人からの突然の夕飯のお誘いも「金曜と土曜に人と会ったからもうダメ」という理由で行きたくなくて、適当な言い訳を作って断ってしまった。もう会えないかもしれない。仕方あるまい。

(基本的には行けたら行くので、本当に理由があって休むこともわりとあるのは追記しておく。)

 

ただ、人と会うのは楽しい。

 

自分が合わない(相手を不快にして怒られそう)場所にはあまり行かないようにしているし、ノリノリで会う場合には大体好きな人としか会わないからだ。なので、誘ってもらうのも誘うのもどっちも嬉しいのだが、嬉しすぎて精神が摩耗される。家に帰ると何一つできなくなって、化粧も落とせないし、歯磨きもシャワーも全部できないでぶっ倒れてくうくうと寝てしまう。でも、そういう日の翌朝って悪い気はしない。

 

嬉しいのと疲れるのは別なのだ。この話、なかなかわかってもらえない。大学のころに「会うと疲れるってどういうこと。嫌いなの?」と詰問されたものだが、「好悪と元気かどうかはどう考えても意味合いが異なるし別軸で考えても良さそうなもんだ」と、字引を引っ張り出して説明したくなる。厭味ったらしいからやらないが。

 

「人と会うのは楽しいがしんどい」ことの折衷案として、ビデオ通話がある。これは大変良かった。ここでは詳しくは書かないが、最近「意識が低い読書会」という「催し」(というには大げさだが)を企画している。この間第4回目をやったのだが、「意識が低いから読書会をするために出かけたくない」という私の願望のもと、強引にビデオ通話環境で実施され続けている。

 

ビデオ通話だと、人がしゃべっている間に気になることがあったらネットでパパっと調べられるし、化粧や風呂をサボっていてもばれない。適当な部屋着でも良いし、途中で寝落ちする人もいる。飽きたら退出すればよい。家で自由度高く人と会う体験をできてしまうので、さほど疲れない。翌日も元気に活動ができる。これまでビデオ通話はあまり活用してこなかったのだが、かなり良い。怠惰に過ごしてきたここ一か月での一番の知見だ。「しんどくてお出かけはできないけど、ビデオ通話ならできます」みたいな言い訳が世の中に広まると、生きづらさが軽減される人が増えそうなものですね。

 

あと、読書会以外の新しいこととして、(春からたまにレッスンに行っていた)ドラムをちゃんと練習し始めた。前に会社のサークルみたいなのでライブがあって初心者なのに出させてもらったのだが、そのあともなんだかんだで、練習が続いている。できないことが多すぎるので、その分、新しくできるようになることも多いわけで、楽しいですね。悪筆すぎるから書道をはじめて、右払いのコツや隷書の逆筆を覚えた10年以上前の時のようにいちいち「へ~~~」となる。あと、スティックがあれば家でもできるのがうれしい。これは、楽しいからやる。

 

ここ数か月外出の機会が減り、ぼんやりする時間が増えたのだが、困る点もある。

 

本を読めない。絵を見れない。

 

どんどんバカになっていくようで怖い。別に本を読んだり芸術に触れれば頭がよくなるとは考えていないのだが、寛容になるとは思っている節がある。小説でも思想書でも絵画でも確実に自分の思想とは異なるものに触れるわけだから、ある程度考えを巡らせる機会となるわけで。その体験が多ければ多いほど、自分と違いすぎる人をも受け入れられる気がするし、それで困惑したときに折り合いをつけやすくなると思う。

 

もっとざっくりした話をすると、年を取ったときに「あの人も私と同じく〇〇に立つべきだ」なんてつまらん愚にまみれた発想になるのが怖いので、若いうちにいろんなものに触れておきたい。だが、体力がなくてそれができないのがしんどい。

 

せめて、せめて、20分でも本を読もう。と、会社の昼休みに青空文庫を開いて気になる作品を読むようにしているのだが、これは悪くない。太宰治の短編だと高校の時にだいたい読んでいるはずなのだが、当時は意味がくみ取れなかったり、もう忘れていたりしているので新鮮に読める。あと、太宰の大学時代の話「盗賊」なんて高校の時にはよくわからなかったけど、社会人になってから読むと面白みが増しますね。大学特有のぼんやりしたダメさや生ぬるい空気感の中にある繊細な感情みたいなのが好きだなア。

 

外に出るのがしんどいので絵を見に行けない。森村泰昌さんの展示に行きたいと数週間言い続けている。今日見に行く予定だったのだが、なんと日曜日が休館の施設だった。心が元気でも世間の都合がうまくいかないときがあるのだ。だから今日は家にいる。

 

仕事終わりに行ける美術館だと夜10時くらいまでやっている森美術館しかなさそうだし、休日の美術館は人が多くて2倍マシで疲れそう。あと、休日は動けない日が多い。どうしたらいいものかね。画集で見るのもいいのだが、どう考えても本物を見たい。

 

絵具のノリやキャンバスの大きさ、他の展示との関連、展示の順番、他の客の食いつき具合、そんな絵そのもの以外の要素から生まれる展覧会ならではの感動もあるわけで、それらは画集じゃ到底再現できない。データがある訳じゃないが何千円の展示に足を運ぶのは無駄ではない、と強く主張していきたい。少なくとも私にとってはそうなのだ。それでいい。4年前にアンディウォーホル展で初めて念願のキャンベルスープ缶を間近で見て力が抜けて涙が出たあの体験も虚偽ではない。家で画集を読むだけじゃダメなこともあるのだ。

 

そのうち、有休を取るかなんかして、丸一日美術館に行く日を作ってもよさそうだなという考えを巡らせている。風邪をなおすことや、地元でダラダラするために有休を使っていたが、こんな日があってもいいだろう。時期はいつがいいのだろう。クリスマスとかだとむしろすいてるかな。その前でもいい。

 

そうそう、今度、新しい書いたことないジャンルの記事を書く(かもしれない)話が出てきていて、少しなんか書きたくなったのでリハビリとして近況を書きなぐった。ここ数か月あり得ないくらいふさぎ込んでいて、文章を打ち込むのがままならなかったが、突然書きたくなったから書いた。悪文だけどそれでいい。では、風呂を沸かして残りの今日は何やるか考えることにします。

初めて「先生」についてのエッセイぽい記事を書いたよ

先日、ダメです.という新しくできたメディアで記事を書かせていただきました。

学校の当たり前に「適応」できない先生だった話 - ダメです. - もうダメな人のためのWEBメディア

 

学校の先生や教育実習生をやってたときに、「学校ってきっちりしててしんどい〜〜!」「子供たちみんな偉い〜〜!」って感じたのを記事化させていただきました。

 

よければ読んでください。喜びます!

 

で、いつもは記事執筆についてはあまりブログにしないのですが書いちゃいます。「先生」や「学校」そのものに関する自分の意見をネット記事にしたのは初めてかもなあ と思いまして。

 

過去に学校を舞台にした作品の紹介記事を書かせてもらったことはあるのですが、今回はそれとは少し雰囲気が異なるものとなりました。完全に自分の思想をむき出しにするわけですので。なので、記念にちょっとメモ的な感想を残そうと思いまして。

 

さて、

 

普段、小学校の先生を少しやってただの、教育学を勉強してただの、ブログやツイッターに軽率に書きまくってるのですが、なんとなく「これは気をつけておきたいな」と思ってることがあります。

 

個人の感想と学校批判の区別をつける

 

これです。

 

日々、学校に関するネット記事やツイート見ると、とにかく「学校は悪」って方向に持っていきがちな気がするのです。

 

まあ、「学校大好き!」よりは説教臭くないしウケが良さそうですよね。だいたいの人が学校に嫌いな先生が1人はいるでしょうし、共感もされやすいことでしょう。

 

私自身も学校とは相性が悪い方でした。

 

ただ、それは学校が全部悪いのか。

果たしてそうなのか。

 

いや、そうでもない気もしてくるのです。私個人の経験が学校全般を語るに足るものなのかと……。

 

今回記事で中心的に扱った「学校行事」でも、それが忘れられない一生の良い思い出や集団での振る舞い方の勉強になる人も多いはずなんです。

 

ただ、それが私には合わなかった。

そう、それだけなんじゃないか、と。

 

例えば、世の中には優秀とされる教育方法がいくつもありますが、それらが全員に効果があるわけじゃありませんよね。個人の嗜好や性格の傾向に左右されることでしょう。

 

せっかく先生をやったのだから、そこらへんは切り分けたい。

 

そこで、今回の記事では

「学校行事は嫌い」だから「学校行事がある学校はクソ」

だとか

「学校のきまりはしんどい」だから「学校は悪」

みたいな構図にならないことを意識しました。

 

もちろん学校にも問題点は色々あるわけで、それを批判していくのは悪いことではないと思います。ただ、個人の感情とは切り離して批判するべきだと考えるのです。

 

自分が不快な思いをしたからそのシステムは悪なのかというと、必ずしもそうではないはずなのです。故に、一歩立ち止まり、冷静に考えるべきではないかと。

 

とはいえ、私も教育実習で担任から受けたパワハラが許せなくて今でもしょっちゅう話題に出してしまいます。時にはいっそ教育実習自体を批判したくなる時もあります。

 

しかし、落ち着いてよく考えると、すぐに批判できるのはパワハラ担任やそれを許した他の教職員なのです。通常は担当教諭全員がパワハラをするわけではありませんよね。私の場合が特殊で不運だったかもしれないのです。(実際のところのパワハラ発生率などは知りませんが……!)

 

つまり、自分がパワハラを受けたことを根拠に、教育実習や学校という大きな物を相手にして「悪」と言い張るのはさすがに論理が破綻してるかな、と思うのです。担当教諭からのパワハラを理由に教育実習全体を批判するには、教育実習でのパワハラの割合だとかなんかそんな感じのデータがないとちょっと厳しそうですよね。まあ、気持ちはわかるんですけどね。

 

あとは、批判するにしても何を批判しているのか細かく考えようかな、と。

例えば、

「学校は悪」「教師は悪」

なんて大きく批判する話をよく聞きます。

 

これ、厳密に言えば、「自分が通ってた学校は悪」「自分の四年生の時の担任が悪」とかそういう話ではないですか?

 

そんな風に、私は逐一質問したくなるのです。

 

批判するのは悪いことではないですし、適切な批判もたくさんあることでしょう。しかしながら、「理由をつけて批判したいだけでは?」って感じる場合もあります。

 

特に教員って職業はこのご時世何かと批判されやすい。1人が問題を起こしたら何故か他の真面目な先生方まで「先生」で括られて批判されてしまう。いやいや、それはおかしいだろう。特殊な例を一般化してモノを語るのは健康的ではない……。

 

それに、是非はともかく批判されることで傷つく人がいますよね。なので、何かを批判する場合にはなるべく対象を明確にしたいなあ、というのが私の考えです。別にこの世の中の全員がそうするべきだとも思いませんし、他人にそうしろとも言いません。ただ、私はなるべくそうしていきたいな、と(なのでこれに関する批判はあまり受け付けたくない)。それだけの話です。

 

そんなことを考えつつ、今回は「学校ってしんどいこともあるよね〜。でも、うまくやっていきたいですね〜。あと、子どもの頃のみんな偉いよね。」といったゆるゆるしたやや傲慢な主張をさせていただきました。

 

真面目な方には「真剣に学校のあり方について考えろ」と怒られちゃうかもしれないのですが、仕方ないですね。

 

個人的には、そういうのは論文か真面目な教育メディアで文献を引っさげて何ヶ月も用意して書きたい。

 

飲酒後で眠たくて、支離滅裂ですみません。ここらへんでやめます。

 

とにかく、今回の記事は(まだまだ文章が未熟なのですが)、今書ける書きたいことを、今ある書ける力で書けて嬉しく思います。

 

読んでくださった方はありがとうございます。

 

ダメです.ってサイト名が現状は検索でヒットしにくいので、もう一度貼ります……!

学校の当たり前に「適応」できない先生だった話 - ダメです. - もうダメな人のためのWEBメディア

 

他の方の記事がなんかもうすごいのでそちらも読んでください!ダメな自分を承認してくれる素敵なメディアです。

 

ではでは。

死者の写真を見ると具合悪くなるんだけどどうしようって話

大学一年生くらいからなのだけど、亡くなってる人(以下、死者と表記)の写真を見ると、突発的な吐き気を伴う不快感がこみあげてくる。

 

実際に吐いたことはない。吐こうと思えば吐けそうな「オエッ」って感覚がやってくる。苦手な生魚を口に入れた時のような「もうダメだ」って感覚。皆さんも嫌いな食べ物に当てはめてほしい。つまり、まあ、ほんの少しだけ体調に変化が訪れるのだ。

 

別に、エログロやホラーが怖いわけではない。纏足を施された人たちの変形した足や、宦官の写真は全然平気で見れる。

 

被写体が本物の死者であることが不快なのだ。(ゲームの死体とかはヘーキ)

 

最初に気づいたのは、恐らく小学生か中学生のとき。フセイン関係の問題が話題になってた時で、クサイ氏だっけ?そんな感じの名前の関係者の亡くなった顔(見るに堪えない状態ではない)がニュースで報道されていた。うろ覚えだから間違えまくってるんだろうけど、具合悪くなるから調べられないので許してほしい。

 

当時、クサイ氏の死よりも、「亡くなった人の顔が報道されてる!」ということに驚いた。自分の中で、「亡くなった状態は公にされない」という常識があったのだ。この常識、完全に間違っているわけではなく、大半の場合はその通りだろう。この人が世界的に影響力のある人であったし、そこまでグロテスクでもなかったから報道されたのだろう。

 

ただ、当時の私は理由はわからぬが感情的に許容できず、しばらくテレビを見るのが嫌だった。なぜ不快なのかはよくわからなかった。

 

次にはっきりと自覚したのは、大学一年の時の教職の授業だった。社会科の先生になるための講義。よくわからないけど、戦争中の映像資料を見せられていた。ノルマンディ上陸作戦だったかも。忘れた。

 

その中で、恐らく亡くなっている兵士が崖をゴロゴロと落ちていくシーンがあった。ほんの数秒で重要じゃない映像なのだけど、そこしか覚えていない。

 

人というよりは、物が落ちていくような感じがして、不快であった。生きていないんだろうなって感じ。

 

はっきりとは説明できないのだが、教材として死者が使われることが感情的に納得できない。他の人は、隠される「自分の死」なのに、歴史的に価値があるからと公開される状況がとても悲しい。

 

そして、戦争の悲惨さを強調する演出のためにゴロゴロ転がる兵士のシーンが使われたようにしか思えなくて、「人の死をなんだと思ってるんだ」ってやり場のない怒りがわいてくる。この兵士にも1人の人間としての人生があって、矜持があって、生き延びたかったかもしれないのに、不本意かもしれないのに、そんな陳腐な演出に使うなんて……。とか無限に考えてしまう。

 

この兵士は自分の敗北がこんな教材になることを望んでいたのだろうか。

 

ここら辺の話は、完全に私の中の感情的なものだ。そこに論理性はないし、誰に反論されても変わらないだろう。なので「感じ方を変えろ」という類の反論は受け付けられないし、聴く耳を持つ気はない。

 

つい何年か前だと、ウィキペディア太宰治の水死体の画像がUPされたのがしんどかった。私は生きている時の太宰治の写真だけを見たい。健康的でかっこいい太宰治だけ目にしたい。亡くなってしまった場面は当時の関係者や歴史学者のうちだけでしまっておいてほしいという願望があるのだ。

 

本当に身勝手な欲望なのは百も承知で綴っている。逆に死者を見ることに意義を感じる人もいるだろうし、史料として価値があるのだろう。ちなみに、ウィキペディア太宰治の項目は親切な方で、冒頭で「遺体の写真があります」という感じの警告をしてくれていた。こういう警告があると安心できるので嬉しいよなあ。共存ができそう。

 

あとは、魯迅の資料を漁っていた時に魯迅デスマスクや亡くなった直後の写真が出てきて、これもダメだった。やはり、自分にとっての歴史的英雄の命尽きるところは見たくないのだ。魯迅の亡くなった写真が何の役に立つのかも本当にわからない。わかりたくない。その本はもう見れなくなった。

 

私は文豪が好きなのだが、この性質のせいで見れなくなった画像が多い。太宰治ウィキペディア三島由紀夫魯迅……。どれも好きな人なので克服したいものだが、果てしなくしんどそうだ。かなり自分の中では明確な考えがあってダメなので、宗教のようなものなのだろうかね。とにかく、良くない。

 

ついさっき、ツイッターでゲンシシャという書店のアカウントを見つけてフォローしようとしたけどできなかった。トップのツイートが、犬の死体を抱くおじさん、亡くなった男の子を立たせて撮影した写真、亡くなった息子を支えるお父さん、笑顔の男の遺体の写真だった。

 

ツイートを読む前は「なんか金持ちそうな外国人の写真でいいなあ」と思ったのだが、全部遺体だと知ってから吐き気がやってきた。とてもセンスのある写真が多いアカウントなので、気になるのに悔しい。たぶん死者だと知らなければ好きな写真がたくさんあるのだろうに、もったいない。

 

個人的には、人の死は人が排泄してる姿のように守られる存在だと思うのだ。通常は人の排泄している姿は露わにならない(露わになる場合はちょっと騒ぎになる)。普通はトイレの個室や仕切りで守られている。死もそんな感じで、身内や友人、遺体発見者、警察、医療関係者、葬儀関係者くらいにしか見せられないことが多いだろう。例外はたくさんあるが、公開自殺のように死者本人の意志が働いている場合は仕方がない。

 

「死者であっても、死者である姿は他者の目から守られる配慮がされるものでは?」という考えから10年以上も抜け出せなくて苦しい。偉人だからOK、昔の人だからOKという感覚がわからないし、受け入れられない。死者たる姿に著作権はないから仕方ないのだけど……。

 

さて、文豪や歴史的資料が見れないのは日常生活では問題ないのだが、当面の悩みはお葬式だ。私は五歳の時に曽祖父が亡くなった時にしか経験がない。その時もショックでしばらく不眠が続いた気がする。

 

それ以降、人の死から目をそらし続けてきた。しかし、今年から社会人だし、後々いろんなお葬式に呼ばれることもあるだろう。会場で吐かないかな………。不謹慎な悩みが頭をもたげる。いや、ほんと、どうしたらいいんだ。

 

4回目のコミケに出展した。定番のアレが欲しかった。

先週末の夏コミに「口福なブタ」というサークルででました。

 

ふらっと興味を持ってくれた方、お喋りしてくれた方、感想を伝えてくれた方、離席してたりで会えなかったけど寄ってくれた方々、男の子女の子……いろんな方が来てくださり、本当にありがとうございました。

 

暑かったと思いますが、立ち寄ってくださり、とても嬉しかったです……!

 

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ところで、今回c94が4回目の参加なのでした。

 

4回目の参加となると、うちのような小さいサークルでもいろいろ憧れや欲が湧いてきます。

 

私が勝手に憧れたのはアレ。

 

なんかでかいポスターつるす長い棒!!!

 

 

 

(調べたらPOPスタンドっていうらしいです)

この長い棒、値段とか名前もコミケが終わった今調べました。

1万円くらいするのかと思って諦めてましたが、2000円くらいで買えるようです。

 

世の中優しい……。

 

長い棒がほしいけど間に合わん

4回目の参加なのですが、うちのサークルは締め切りという概念を、私を含めたサークル員の大半が忘却しています。

 

そのため、本が完成するのは毎回だいたい前日です。

 

今年は夕方の6時くらいに完成したのですが、

 

「余裕ある」と、同人イベント友達のもひもひさんに褒められ(煽られ)ました。

 

昨年の冬コミは、当日の朝2時(?)に「原稿できました! 印刷してください! 」と連絡を受けたので、今年は原稿の完成が日付をまたいでいない分かなり優秀だと言えるでしょう。他のサークルからすると、さほど変わらんでしょうが、偉大なる一歩なのですよ。

 

結局、印刷(セブンイレブン印刷機は有能)をしてホッチキス止めをダラダラやって日付をまたいでしまったのですが……。それでも比較的気持ちの余裕がありました。進歩ですよ。進歩。

 

そんなわけで、非常に余裕のあるスケジューリングに成功したのですが、一つ間に合わないものがありました。

 

それが、さっきの長い棒。

 

長い棒の調達

うちのサークルは、幸運にも4度も連続でサークル当選しているので、次こそは落とされるかもしれません。

 

そうなると、長い棒を使えるのは1年後……。

 

嫌だな、せっかくならサークルっぽいことしたい。

 

しかし、時は午前4時。家を出るまであと3時間。流石に東京と言えどAmazonは届かない。

 

じゃあ、作るしかないっしょ。

 

というわけで、作りました。

 

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 まあまあ良くないですか???

 

即席長い棒の材料 

・ドラムの練習パッド

・ガムテープ

・折れた自撮り棒

 

以上。賢明な読者しかいないので、作り方は書く必要もないでしょう。

 

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⬆︎帽子掛けからコミケの長い棒に転職した練習パッドくん。

 

感想

ドラムの練習パッドをコミケの長い棒にした感想は以下の通り。

  • 安定感が異常にある
  • なんか可哀想
  • 重い
  • 絶対他にもっといい案がある
  • カバンから同人誌とドラムのパッドがはみ出て恥ずかしい
  • とにかく重い
  • 2000円とかで買えるなら次は長い棒買う
  • オススメしません
  • 組み立ててる時隣のサークルの人が困惑してた
  • 重い

 

以上。夏の工作にぜひ。

では、良い夏休みを。

 

コミケ自体の感想としては、今回は特に嬉しいことがたくさんあったので、それはそれでまた別に書きたいですね。